経年変化

今年は暖冬気味だったらしく、冬を上手く実感できないままあっという間に2023年が終わろうとしている。雪は降らないし、季節のイベントを意識するわけでもなかったから尚更だ。これが老いなのだろうか。こんなことを言ったら年上の人からは「お前はまだ若いだろ」と言われそうだが、イベントに一喜一憂しなくなったことも含めて、昔より圧倒的に季節の境目に疎くなった気がする。「若さ」とはそういう周囲の変化に敏感に楽しめるようなもので、そんな子供心をどこかに置いてきたのかもしれない。

 

昔から変わらず在るものに安心する。中学の入学祝いに叔父から貰った腕時計は今も身につけているし、その頃になけなしの金をはたいて買った長財布を今も使っている。丈夫で長持ちするという理由でデニムパンツが好きだ。一方で、すぐに毛玉ができるニットやセーターは傷ついて欲しくないのであまり進んで着ることが出来ない。どれだけ丁寧に着ていても腹が立つことにお気に入りの服には寄生するように毛玉が生まれてしまう。兎に角変化しにくいものを好み、変化して欲しくないと願う私の根幹は、身に付ける物に留まらず対人関係にも及んでいる。たまに昔の友達に会いたくなる時があるけれどそれは記憶の中にいるその人に会いたいのであって、今の彼に会いたいわけではない。昔のその人と話し、また馬鹿みたいな喧嘩がしたい。実際に会ったら価値観と認識の押し付けになってしまうことは必至だ。私が「昔はこうだったのに」と言われたとしたら、なんだかむず痒いし良い気持ちにはならないからそんな過去の話はするべきでないのだろうけど。

 

そんな変わらないで欲しいという我儘を置き去りにして、身の回りすべてが刻一刻と変化していく。それらをどうにかしようとすることは出来ないし何より傲慢だ。ただ面白いことに、自分自身であれば好きにカスタマイズできるらしい。割れ物のように丁寧に扱うも良し、デニムパンツのように着古し、ダメージ加工するも良し。私はダメージ加工を施していこうと考えている。丁寧にしていればいるほど、割れてしまった時立ち直れなくなりそうだ。それならばもう、現世で使えるこの「肉体」は些か雑に扱って味が出るよう育てたい。素朴な心は置いてきたのではなく、育ったんだと信じるために。

 

今年一年何をしたか、と振り返るのは大体明るい気持ちになれないかもしれない。かと言って来年の抱負を考えるのもまた少し野暮だと思う。どちらかと言えば、今を必死に生きて加工している方がずっと心持ちが良い。長い目で見て、将来「そんなこともあったね」とむず痒くても笑い飛ばせたらそれだけで満点でしょう。人生はまだまだ長いから今へこたれたって無問題。心はいつだってジーパン職人。どうぞよろしく。