不可視

ブログを書こう書こうと思い始めてから一念発起するまで2ヶ月掛かった。夏の盛りは疾うに過ぎ、気がつくと自分を除く人間は皆長袖になっていて、変な人になった気分だった。ブログを書きたいという気持ちは常々持ちつつも現実は義務的なタスクに追われ余裕が無い。それでも目を背けながらゲームしたりブログを書いたりすることは中々楽しい。

 

就活が終わり、大学生活に一段落ついたから何か自分の為になることを、と思って好きでもない読書を始めた。小さい頃からゲームに囲まれ、かと思ったら勉強をしないといけなくなって、今まで本を読む暇も意義も見い出せなかった。齢22にしてやっと本や音楽に興味を持ち、自分でも何かしてみたいとブログ執筆に至ったのは、この瞬間が、これから先の人生においてしばらく味わえないスコレーだと気づいたからだ。

 

ある本の中で、13歳の少女が「目に見えるものが好きなの。目に見えないものと同じくらい」と言っていた。13歳の少女がそんなこと言うかしら、と思ったけども、「自分に足りない視点かもしれない」と思う自分を発見した。小学生の頃は「友達が始めるから」と一緒に空手を習い始めたものの、黒帯を取ってから辞めるという約束をしてしまった手前、さっさと辞めるために必死こいて体罰を耐えた。中高生の時は周りもやっているからという安易な考えでテストの点数に囚われた。結果という目に見えるものに追われていた。間違っていたとは思わないが、受動的に行動することを好きと言えるのかは疑わしい。単に好きだからなんじゃなくて、楽だからそうしてきたんだろう。言われるが儘に物事を進めた方が楽だし、大体は人以上に上手くできたもんだから、余計何も考えず生きてきた。積極的に何かを好きでいるのには労力が要る。簡単に思考放棄をする人間が苦手なのは、物事を斜に構えて自己防衛している自分の映し鏡を見ているようだからなのかもしれない。

 

社会に出たら、これまで以上に目に見えるものに追われるのだろうとぼんやり思う。本当に大事なことは姿形そのものじゃなくて、そこらに遍在する目に見えないものなんじゃないかとも。周りの大人に趣味を聞くと答え倦ねる人が多いように感じるのは、きっと日々に追われるあまり、目に見えないものに気づけなくなるのではないだろうか。現実逃避かもしれないが、せめてこのモラトリアムの間だけでも過程や機微を愛で、好きなものがある人で在りたい。それがブログを始める理由です。どうぞよろしく。