風光る

桜の花咲く頃、とはまだいえないが気温の上昇によって春が深まっていくのを肌で感じている。思えば季節は人生で21回とちょっと回っているようで、毎度違う春が来る。特に4年前は大きな転換点のようなもので、今の在り方を形成しているといってもいいだろう。

 

新型コロナウィルスの氾濫により、実家での大学生活を余儀なくされた。恐らく多くの人は1年目から交友関係を広げており、私はスタートダッシュに乗り遅れた。加えて、授業内で他学生と関わる機会が少ないという、友達が居なくとも何とかなるという大学の性質と必要なければ特に人と関わろうとも思わない私の気質が相まって結局友人と呼べる人間は大学には居ない。興味の幅は狭く、小ぢんまりとした日常の中に埋没していくことが一番の幸福だと疑っていなかった。あの時もし積極的に行動していれば、と考えることは殆ど無いが、その世界線があれば少しだけ見てみたいようにも思う。

 

今春もまた人生において大切な転換点だろう。蛸壺化した部屋での生活は幕を下ろし、外界とこれまで以上に接触しなければならない。現在体調を崩しているのは、そんな自室と外界の温度差を感じ始めているからということにしておきたい。4年前と比べると、どちらも半強制的にそのような環境の変化が起こっているが、最も大きく異なるのは人との出会いだと思う。大学生活では、基本的に会う人間を選ぶことができる。かつて私がそうしたように会わない選択もできる。一方、社会に出るということは、より多くの人との強制的なエンカウントを意味する。特に一回りも二回りも多く生きた人間との出会いがあると思う。彼らに対して上手く立ち振る舞えるかという不安と、自分の知らない世界を教えてくれることへの期待とがフィフティフィフティだが、どうせなら物事は楽しいことに目を向けたい。どんなに暗くて厚い雲も、その裏側は銀色に輝いているのだから。

 

私の当面の目標は大人としてできることはできるようになることだ。例えば運転。最近知ったことだが、運転というのはかなり集中力とエネルギーを使う。初心者マークを付けた私は1時間運転するだけでもひいこら言っているのに、父はキャンピングカーで大阪まで8時間ほど運転できるのだから、自分はまだまだだと感じる。他にも尊敬できる人はいる。私の大叔父は建築会社の元社長で、70を越え、ガンのステージ3と診断された今でも毎日鶏27羽に囲まれながら毎日色んな人と会っているというのだからその気力に驚く。大人の体力はすごい。20代を過ぎると体力が落ちてくるとよく聞くがむしろ増えているのではないだろうか。

 

3月中に1本書きたいといいながらギリギリになってしまった。全く推敲してないので何言ってるのか分からないかもしれないけれど、要するにやる気はあるので、とにかく頑張ります。不安です。楽しみです。疲れて折れそうな時は皆さん支えてください。どうぞよろしく。

 

 

経年変化

今年は暖冬気味だったらしく、冬を上手く実感できないままあっという間に2023年が終わろうとしている。雪は降らないし、季節のイベントを意識するわけでもなかったから尚更だ。これが老いなのだろうか。こんなことを言ったら年上の人からは「お前はまだ若いだろ」と言われそうだが、イベントに一喜一憂しなくなったことも含めて、昔より圧倒的に季節の境目に疎くなった気がする。「若さ」とはそういう周囲の変化に敏感に楽しめるようなもので、そんな子供心をどこかに置いてきたのかもしれない。

 

昔から変わらず在るものに安心する。中学の入学祝いに叔父から貰った腕時計は今も身につけているし、その頃になけなしの金をはたいて買った長財布を今も使っている。丈夫で長持ちするという理由でデニムパンツが好きだ。一方で、すぐに毛玉ができるニットやセーターは傷ついて欲しくないのであまり進んで着ることが出来ない。どれだけ丁寧に着ていても腹が立つことにお気に入りの服には寄生するように毛玉が生まれてしまう。兎に角変化しにくいものを好み、変化して欲しくないと願う私の根幹は、身に付ける物に留まらず対人関係にも及んでいる。たまに昔の友達に会いたくなる時があるけれどそれは記憶の中にいるその人に会いたいのであって、今の彼に会いたいわけではない。昔のその人と話し、また馬鹿みたいな喧嘩がしたい。実際に会ったら価値観と認識の押し付けになってしまうことは必至だ。私が「昔はこうだったのに」と言われたとしたら、なんだかむず痒いし良い気持ちにはならないからそんな過去の話はするべきでないのだろうけど。

 

そんな変わらないで欲しいという我儘を置き去りにして、身の回りすべてが刻一刻と変化していく。それらをどうにかしようとすることは出来ないし何より傲慢だ。ただ面白いことに、自分自身であれば好きにカスタマイズできるらしい。割れ物のように丁寧に扱うも良し、デニムパンツのように着古し、ダメージ加工するも良し。私はダメージ加工を施していこうと考えている。丁寧にしていればいるほど、割れてしまった時立ち直れなくなりそうだ。それならばもう、現世で使えるこの「肉体」は些か雑に扱って味が出るよう育てたい。素朴な心は置いてきたのではなく、育ったんだと信じるために。

 

今年一年何をしたか、と振り返るのは大体明るい気持ちになれないかもしれない。かと言って来年の抱負を考えるのもまた少し野暮だと思う。どちらかと言えば、今を必死に生きて加工している方がずっと心持ちが良い。長い目で見て、将来「そんなこともあったね」とむず痒くても笑い飛ばせたらそれだけで満点でしょう。人生はまだまだ長いから今へこたれたって無問題。心はいつだってジーパン職人。どうぞよろしく。

スーパースター

課せられた義務みたいなものから粗方解放されて、マリオがスーパースターを取った時のBGMが脳内で流れていた矢先、体調を崩したらしく喉を痛めた。1年の中で過ごしやすくて最も好きな時季なのに、ほんのちょっぴり生きにくい。

 

満足しているか自問自答する時が偶にある。勿論刹那的に満たされている瞬間はあると思うが、問いたいのは持続的なものだ。中学生から高校生くらいにかけて、「死にたい」という思考が頭の片隅にあった。芥川龍之介の「将来に対する唯ぼんやりとした不安」じゃないが、当時は何かが欠けていて、今となっては全く理解できないくらい漠然としていた。単なる思春期だったのかも。それに比べたら今は非常にシンプルで、満たされていると感じる。 

 

中学か高校かといえば、現代文の授業で「世界は自己中心に意味づけされる」というような文章があったのを今でも鮮烈に覚えている。その時は「自分が死ぬことはイコール世界の消滅を意味する(自分が死ぬとその後の世界を知覚、意味づけできないから)」程度の、どこか陰気臭い認識で頭に残っていたけど、先日異なる文脈で「意味づけ」に再会した。

 

「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック──いわゆるトラウマ──に苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって、自らを決定するのである。」

 

つまり、過去の経験が私たちの何かを決定しているのではなく、私たちが過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって自らの生を決定しているらしい。これは一般的な因果律を否定する。例えば、「虐待を受けて育ったから、自己表現や自尊心に欠けている」という考えは、「虐待を受ける」ことが「自己表現や自尊心が欠ける」ことに繋がると意味づけしているという。これに関してはなんかそれっぽいデータが存在して、そんなの当たり前じゃんとなる可能性があるから例としては適切じゃないかもしれない。でも考え方自体は抽出できる。「体調が悪いから喉を痛めた」という事象も今この瞬間に「喉を痛める」という経験のお陰で「ブログを更新できた」と前向きに再構築できる。

 

過去は変えられないし、中には足を引きずるものもあるだろうけど、どうせなら前向きな意味づけをしてあげた方がお得な気がする。少なくともタイムマシンが存在しない今は。

誰かを前向きにできるような記号になれたらと思う。スーパースターとまでは言わないけれど、少し背伸びするためのスーパーキノコ、喉を痛めたときの喉飴。満足かどうかは置いといて、そんなものになれる人生なら、上々満足じゃない?

異星人

久しぶりに高校からの旧友と酒を飲んだ。特別な日だったり他に人がいたり、とかく一人だと酒を飲まない。実は私はお酒が嫌いなんじゃないかと思う時がある。腹を割って話そうとするとみんな酒を交えようとするが、その必要は無い。素面でもそんなことはできる。でも確かに、ああでもこうでもない、と素面だと頭の中で最適な言葉を吟味していく内に何を伝えたかったのか分からなくなる自分がいるから、会話を続けるという意味ではしっかりお酒の恩恵には浴しているのだと思う。

 

昔から何を考えているのか分からないとよく言われた。声の抑揚が無いからじゃないかと思っていたが、実は己を曝け出していないからということに気づいた。その証拠に人と話す時によく腕を組んでしまう。自己防衛の表れらしい。TwitterのAI診断かなんかにさえ、「感情表現がない」と言われるのだから笑える。

 

酒を交わして表面的な会話をするなら殊更、真のコミュニケーションかどうか疑わしい。酒を飲んでもあんま酔わない自分を酔ったと思い込んで、気の赴くままにくっちゃべった方がより人間らしいコミュニケーションなんじゃないだろうか。

 

居酒屋を出ると、秋の風が酔いを醒まそうと頬を撫でる。夜の雑踏の中、街を行き交う人間たちのこれまでの人生や経験を考えると、パンパンの情報量でいよいよ酔いが進みそうだ。結局何が言いたいんだっけ?もう分かんねえな。酒で流し込んだ高級焼き鳥と、シロノワールとマックが腹の中で滅茶苦茶だ。読みにくいだろうけどどうぞよろしく。

不可視

ブログを書こう書こうと思い始めてから一念発起するまで2ヶ月掛かった。夏の盛りは疾うに過ぎ、気がつくと自分を除く人間は皆長袖になっていて、変な人になった気分だった。ブログを書きたいという気持ちは常々持ちつつも現実は義務的なタスクに追われ余裕が無い。それでも目を背けながらゲームしたりブログを書いたりすることは中々楽しい。

 

就活が終わり、大学生活に一段落ついたから何か自分の為になることを、と思って好きでもない読書を始めた。小さい頃からゲームに囲まれ、かと思ったら勉強をしないといけなくなって、今まで本を読む暇も意義も見い出せなかった。齢22にしてやっと本や音楽に興味を持ち、自分でも何かしてみたいとブログ執筆に至ったのは、この瞬間が、これから先の人生においてしばらく味わえないスコレーだと気づいたからだ。

 

ある本の中で、13歳の少女が「目に見えるものが好きなの。目に見えないものと同じくらい」と言っていた。13歳の少女がそんなこと言うかしら、と思ったけども、「自分に足りない視点かもしれない」と思う自分を発見した。小学生の頃は「友達が始めるから」と一緒に空手を習い始めたものの、黒帯を取ってから辞めるという約束をしてしまった手前、さっさと辞めるために必死こいて体罰を耐えた。中高生の時は周りもやっているからという安易な考えでテストの点数に囚われた。結果という目に見えるものに追われていた。間違っていたとは思わないが、受動的に行動することを好きと言えるのかは疑わしい。単に好きだからなんじゃなくて、楽だからそうしてきたんだろう。言われるが儘に物事を進めた方が楽だし、大体は人以上に上手くできたもんだから、余計何も考えず生きてきた。積極的に何かを好きでいるのには労力が要る。簡単に思考放棄をする人間が苦手なのは、物事を斜に構えて自己防衛している自分の映し鏡を見ているようだからなのかもしれない。

 

社会に出たら、これまで以上に目に見えるものに追われるのだろうとぼんやり思う。本当に大事なことは姿形そのものじゃなくて、そこらに遍在する目に見えないものなんじゃないかとも。周りの大人に趣味を聞くと答え倦ねる人が多いように感じるのは、きっと日々に追われるあまり、目に見えないものに気づけなくなるのではないだろうか。現実逃避かもしれないが、せめてこのモラトリアムの間だけでも過程や機微を愛で、好きなものがある人で在りたい。それがブログを始める理由です。どうぞよろしく。