スーパースター

課せられた義務みたいなものから粗方解放されて、マリオがスーパースターを取った時のBGMが脳内で流れていた矢先、体調を崩したらしく喉を痛めた。1年の中で過ごしやすくて最も好きな時季なのに、ほんのちょっぴり生きにくい。

 

満足しているか自問自答する時が偶にある。勿論刹那的に満たされている瞬間はあると思うが、問いたいのは持続的なものだ。中学生から高校生くらいにかけて、「死にたい」という思考が頭の片隅にあった。芥川龍之介の「将来に対する唯ぼんやりとした不安」じゃないが、当時は何かが欠けていて、今となっては全く理解できないくらい漠然としていた。単なる思春期だったのかも。それに比べたら今は非常にシンプルで、満たされていると感じる。 

 

中学か高校かといえば、現代文の授業で「世界は自己中心に意味づけされる」というような文章があったのを今でも鮮烈に覚えている。その時は「自分が死ぬことはイコール世界の消滅を意味する(自分が死ぬとその後の世界を知覚、意味づけできないから)」程度の、どこか陰気臭い認識で頭に残っていたけど、先日異なる文脈で「意味づけ」に再会した。

 

「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック──いわゆるトラウマ──に苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって、自らを決定するのである。」

 

つまり、過去の経験が私たちの何かを決定しているのではなく、私たちが過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって自らの生を決定しているらしい。これは一般的な因果律を否定する。例えば、「虐待を受けて育ったから、自己表現や自尊心に欠けている」という考えは、「虐待を受ける」ことが「自己表現や自尊心が欠ける」ことに繋がると意味づけしているという。これに関してはなんかそれっぽいデータが存在して、そんなの当たり前じゃんとなる可能性があるから例としては適切じゃないかもしれない。でも考え方自体は抽出できる。「体調が悪いから喉を痛めた」という事象も今この瞬間に「喉を痛める」という経験のお陰で「ブログを更新できた」と前向きに再構築できる。

 

過去は変えられないし、中には足を引きずるものもあるだろうけど、どうせなら前向きな意味づけをしてあげた方がお得な気がする。少なくともタイムマシンが存在しない今は。

誰かを前向きにできるような記号になれたらと思う。スーパースターとまでは言わないけれど、少し背伸びするためのスーパーキノコ、喉を痛めたときの喉飴。満足かどうかは置いといて、そんなものになれる人生なら、上々満足じゃない?